
2008年04月26日(土曜日)
大坊珈琲店の宵
東京カフェマニア主宰 川口葉子
その日、大坊珈琲店の厚い一枚板のカウンターのはじっこに座り、私はいつものコースを楽しんでいました。モカをゆっくりと2杯。手持ちの文庫本を何ページか。大坊マスターが「お元気ですか」と声をかけてくださったので、近況報告をすこしだけ。
ちょうど街の人々が夕食のことを考えはじめる時刻で、店内は久しぶりにしんとした静けさに満ちていました。お客さまは私と、すぐあとから入ってきた常連客らしいひとだけ。素敵な女性でした。声から判断すると30歳くらいでしょうか。カウンターに座ると、やはり大坊マスターとふたことみこと近況を告げる会話をおだやかに交わし、あとは珈琲のおいしさにそっと集中している様子。
私が1杯目のモカを飲み終えて2杯目のモカを注文したときのこと。第三の客が登場して、店内の空気がいっきに変わりました。なにしろむやみに声の大きなひとだったのです。
「こういう店に来るのは初めてなんですけど!」
スーツ姿の青年はぎくしゃくとカウンター席に腰かけ、大音量で述べました。店内はなんだか元気でとんちんかんな新入社員が入ってきた……という雰囲気になり、女性客も私も、今にも吹きだしそうになるのをこらえる感じに。
青年が大坊マスターに向かって大声で語るには、とても素敵なひとが、行きつけの店だと言って彼に大坊珈琲店を教えてくれたのだそうです。かつてこのような専門店には来たことがない、と彼は申告しました。
「うちは、ふつうの珈琲屋です」
大坊マスターはいつもとすこしも変わらない礼儀正しさで答えました。
「そうですか?!」
「吹けば飛ぶような店ですよ(笑)」
マスターの声のあたたかさは、青年の緊張をいくぶんほぐしたようでした。彼はメニューに悩みつつ「コーヒー」と注文しました。
大坊珈琲店ではブレンドコーヒーを濃さによって1番から4番まで分けており、単にコーヒーとだけ注文すると標準的な濃さの3番が出てきます。番号が小さくなるにしたがってコーヒーが濃厚になっていくのですが、ここのコーヒーのが真価が味わえるのは2番からだと私は思っています。好みの問題と言ってしまえばそれまでですが。
青年は3番のコーヒーを飲みながら、「開店したのは何年前ですか」とか「あそこの器はなんですか」とか、不器用なトーンで質問を投げかけていきます。
女性客と私はそれぞれの流儀でもって、この青年に優しい歓迎の意を示していました。女性客は青年の言葉に小さな笑い声で相槌を打つようにし、私は声を出さずにチェシャ猫のようなビッグスマイルを浮かべながら読書を続けて。(やりとりを聞いていると、どうしてもそんな顔になってしまうのです)
そんな会話が一段落したころに、大坊マスターがおっしゃったのでした。
「張りのある、いい声をしていらっしゃる」
青年は驚きと嬉しさとが半々の様子で、そうでしょうかと答えました。
「でも、もう、最初にここに入ったきた時とは声の調子が違っていますね」
と、マスターは続けました。
「あなたは声の調子がちゃんと変えられるんですね」
そこで青年は初めて気がついたのです。
「ぼく、最初は声がずいぶん大きかったですか。すみません」
大坊マスターはただ、笑っていらっしゃいました。さすが、としか言いようがありません。お客さまに恥をかかせない言葉で、注意をうながすべきポイントはちゃんと教えてさしあげているのです。青年は次に大坊珈琲店を訪れるときには、きっと深い珈琲の香りと低く抑えたジャズの音色にふさわしい声のボリュームで言葉を発するに違いありません。
珈琲店デビューの舞台が大坊珈琲店だったことを、彼はあとになってから、感謝の念とともに思い出すことでしょう。

2008年04月19日(土曜日)
小豆島の醤油のはなし
東京カフェマニア主宰 川口葉子
古くは醤油づくり、最近ではオリーブ栽培でも知られる小豆島。
島で唯一の酒蔵である森國酒造を訪ねて、かつては佃煮屋さんだったという建物を改装した美しいカフェを取材させていただいたあと、代々、家族で伝統的な醤油づくりをおこなってきたヤマロク醤油さんに案内していただきました。
古い建物に足を踏み入れたとたんに、たちこめる醤油の香りに包まれました。明治時代初期に造られ、100年以上を経て今なお使われつづけているヤマロク醤油のもろみ蔵は、国の登録有形文化財にも指定されているものです。
薄暗い土壁の蔵にひっそりと並んでいる、巨大プールのような杉の大樽。それはまるで深い森の奥で、樹齢何百年ともしれない巨樹に出会ったような光景でした。
ただ圧倒されるばかりの大樽。なにしろ、その木肌には麹菌がびっしりと繁殖して、苔むしたよう。水分を含んで柔らかくなり、今にももろもろと崩れ落ちるのではないかと思うような樽なのです。まさに時代を超えて生きつづける巨樹の肌。
木製の樽は、古くから賢くリサイクルされてきたのですって。
「最初に酒蔵で50年くらい使われたあと、アルコール分が抜けてしまうようになったら、醤油樽として使われるんです。これは100年以上もちます。最後には木の表面を削って、漬け物屋で使われます」
ヤマロク醤油の5代目、山本さんがそう説明してくださいました。
階段をのぼって熟成中の樽の上に立つと、樽の中のもろみたちはうごめき、ささやきかわしているよう。それが生きものであることが実感できます。醤油づくりは生きものを育てることなのですね。まどろむ土壁、深い呼吸を続ける杉樽、その中でふくらみ成長していくもろみ。
自分が見た光景があまりにも説得力があったので、思わずその場で自宅用に醤油を4本買いもとめましたが、5代目が笑いながらおっしゃることには、ヤマロク醤油は東京でも紀伊国屋やDEAN&DELUCAで購入可狽ネのですって。TV番組「どっちの料理ショー」のなかでは、究極のお醤油として紹介されたそう。
左上の写真は週末限定で登場する「しょうゆプリン」。
「醤油と乳製品はよく合うんですよ」
という5代目の言葉通り、ひかえめなプリンの甘さに、ほのかな醤油の香りがふんわりと混じり、あとをひくおいしさです。

2008年04月12日(土曜日)
口コミで伝わらないカフェの話
東京カフェマニア主宰 川口葉子
蒲田といえば、チェーン系以外にカフェなどあるのかしら、というイメージの強い“居酒屋の町”ですが、駅のすぐ近くのマンションの2階に、驚くほど優秀なカフェがひっそりと身を潜めています。
障子を模したほのかに白く光る窓が、雑然とした外界の風景を完全に遮断し、漆喰と杉材の壁に囲まれたカフェの内部にやわらかなあかりをもたらしています。
デザインを手がけたのは、建築家であり、このカフェのオーナー八代まゆみさんのご主人でもある八代国彦さん。店内に並んでいる端正でありながらあたたかみを感じるフォルムの椅子たちは、木曽アルテック社にオーダーしたオリジナルです。
静かな愉しみの気配に満ちたこのカフェでお菓子教室を主宰する八代まゆみさんの信条は、お菓子づくりの各プロセスの中に、ほんのわずかでもおいしさのクオリティを増すポイントがあれば、すべて省略せずに実行すること。「おいしさへの努力は最大限におこなう」--そうして作られた名物のひとつが、写真の「蒲田モダンロール」(500円)です。
中央の手作りこしあんの風味との相性を考えて、生クリームは乳脂肪分の低いものを選び、すっきりした優しい味わいとなめらかな口あたりに。
それらをしっとり包み込む抹茶の生地は、ふわふわ感ともちもち感を両方とも楽しめるようにと、手間のかかるスフレ生地で作っています。
「飾らないお菓子ほど、作るひとの心がけが出てしまうのです」と八代さん。そのおいしさに、オープン当初から熱心に通いつめる常連の方々が、男女を問わずに多いそう。しかしこのカフェ、口コミでは全然ひろがらないのですって。
「近くの会社で働いている女性のお客さまが、『大切な隠れ家だから絶対にひとには教えません!』と言って帰っていかれました(笑)」
大切に場所だと思ってもらえるのは嬉しいし、でも、もう少しほかの人々にも知ってほしいし…と、こういうカフェをいとなむオーナーの想いは複雑です。考えてみれば私も、初めておじゃましたのは1年近く前になるのに、なんだかもったいなくて、大きな声ではひとに教えていませんでした!
お昼どきにはおいしい昼食を楽しむ人々で賑やかになりますが、午後2時を回れば、心をこめて淹れられた紅茶と、とびきりのお菓子の数々と、喧噪にじゃまされない時間が待ち受けています。
お茶とお菓子 まやんち
東京都大田区蒲田5-43-7 ロイヤルハイツ蒲田207号室
TEL 03-6276-1667

2008年04月04日(金曜日)
自転車に乗って、珈琲を飲みに
東京カフェマニア主宰 川口葉子
情熱的な食いしん坊の知人がいます。そのかたのお名前を、仮にX氏としておきましょう。
「福岡に良いカフェを見つけましたよ」
そんなメールをX氏からいただいてから1年あまりも経ったころでしょうか、ようやく教わったカフェを訪れることができました。
小さなカフェの男性店主は、やわらかな透明感と表現したらいいのか、繊細な優しさと表現したらいいのか、独特の不思議な空気を身にまとっていらっしゃるかたでした。
やりとりしたのはごく一般的な会話だったのですが、お話ししているうちに、そのひとの表情のなかに天使的な一点をみつけて注目していたから、不思議な印象が残ったのかもしれません。
その店主からうかがったX氏の話。
「はじめてX氏がお店に来てくださった日のことは忘れられません」
X氏は東京から福岡に向かう飛行機の中で、機内誌のページに紹介されていたそのカフェのことを知り、福岡空港に到着するなり「いま空港にいるんですが、お店に行くにはタクシーにどう言えばいいですか?」とカフェに電話をかけてきたそうです。そして空港からそのままタクシーに乗ってお店に直行したとか!
食いしん坊は、おいしいものへの直感がはたらくと、素晴らしい行動力を発揮するものですね。素敵そうな情報に接したとき、「いつか行ってみたいな」ではなくて、「今がそのチャンスだ、すぐに行こう」と思えることこそが、机上の食いしん坊と、真の食いしん坊との違いなのかもしれません。
いまやX氏は福岡を訪れるたびに、レンタサイクルに乗ってそのカフェにやってくるそうです。
「まるでこの街に住んでいるひとのように、いらしてくださるんですよ。自転車というイメージはないかたなのに」
たしかに高級外車のほうが似合うX氏ですが、福岡という街は自転車で移動するほうが気持ちいいサイズ。街の空気も含めて、おいしい珈琲を楽しんでいらっしゃるのでしょう。
※写真は珈琲をドリップする店主の後ろ姿です。心を癒す薬を調合している薬剤師にも、珈琲の実験をしている化学者にも見えます。

2008年03月28日(金曜日)
困った時の豆頼み
東京カフェマニア主宰 川口葉子
新しいカフェの本を作るために、ひとりでカメラをかついで日本のあちこちに取材旅行にでかける日々が続いています。その町の有名店を訪れてみるのは興味深いものですが、地元の珈琲好きにしか知られていないような、ひっそりしたお店に出会うのは、より心に残る体験となります。
よく晴れた午後、初めて降り立つ町で扉を叩いた、1軒の魅力的な自家焙煎珈琲屋さん。古びた長屋の一室を使った店内には、1kgの小ぶりな焙煎釜と、燃える珈琲魂を持つ20代のご主人と、笑顔が春の青空を思わせる奥さまの3人が立っていました。
お店の入口の横に小さな黒板が出ていました。白いチョークで綴られた言葉は、
「困った時の豆頼み」。
これはご主人が3週間に1度くらいの頻度で思いついてはチョークを握る珈琲格言(?)なのだそうです。小さな町には、珈琲豆を買わず、この格言だけを楽しみにして読んでいく通行人もいるとの噂。
黒板にはこれまでに、
「渡る世間は豆ばかり」
「十人十豆」
…などの名作が書きつけられてきましたが、十人十豆と書いたときには、店名と間違われたそうです。店名にしても、なかなか素敵に響くではありませんか。
珈琲豆を深く愛し、安易にお客さまが増える方法は自分が納得できないからと切り捨て、「まったく儲かりませんね!」と明るく断言するご主人の若さと潔さに、まぶしいような心もちがしました。
棚の片隅に置いてあった植木鉢には、友人が作って贈ってくれたという2匹のカエルが踊っていました。珈琲挽きを回すカエルと、白いカップでコーヒーを飲むカエル。仲の良いご主人と奥さまの姿なのだそうです。

2008年03月21日(金曜日)
「くらしと器 夏草」
東京カフェマニア主宰 川口葉子
今週は新しい本の取材のために、名古屋のカフェをあちこち訪ねて歩きました。そのうちのひとつ、「おうち菓子 madam an(マダムアン)」という築70年になる長屋を使ったカフェの奥で、四畳半のギャラリーに出会いました。
ギャラリーには、カフェの室内からいったん小さな庭に出て、飛び石を渡って入ります。
日本でいちばん小さい(?)畳敷きのギャラリー「くらしと器 夏草」の主は寺本秀子さん。すりガラスごしに木漏れ日と明るい緑いろが揺れ、窓際に並べられた器に表情を加えています。この窓には、塀の上を散歩する猫の影も映るそうです。
部屋に並んでいるのは、陶芸、漆、染織、ガラス、鍛金(たんきん)、木工など多分野にわたる作家たちの作品。いずれも寺本さんのまわりで活躍している身近な作家さんたち。寺本さんご自身がものづくりをする人であったことから、もっと気軽に作品に親しんでもらいたいと、作家と人々を結ぶ場所としてギャラリーを開設したそう。
棚の一角には、水野正美さんの手になる小さな美しい銅鍋が置かれていました。寺本さんも女性としては珍しく鋳物の道に進み、水野さんと同じように金槌を使って銅版をこまかく打ち出し、作品を作っていらしたといいます。
私には金属を扱うことの面白さがとっさに想像できませんでしたから、なぜ、その分野を選んだのですかと訊ねずにはいられませんでした。
「作っているうちに、金属のあたたかさを感じられるようになるのです」
と寺本さん。
金属を熱したり冷やしたりこまかく叩いたりする作業を繰り返していくうちに、ひとの手と金属とのあいだに不思議な親和性が生まれるのかもしれません。その「あたたかい」という実感は、日々金属に触れ、金属と心を通わせていた人間にしか得られないもの。なにかをきわめようとしたひとの言葉には、聞いている者にとっても発見があります。
夏草という名前の由来について、寺本さんに訊ねてみました。
「ギャラリーの名前が思い浮かばなくてどうしようかなと思っていたとき、むかし住んでいた札幌の家の風景がぱっとひろがったのす。家の前はいちめんの夏草でした」
旅先でカフェやギャラリーを訪れ、人々の作品や言葉に接する時間は、なにかしら心に種をまいてくれるようです。

2008年03月14日(金曜日)
コーヒーの風味、ひとの風味
東京カフェマニア主宰 川口葉子
どういうわけでしょうか、人生にコーヒーが深くかかわっている人々には、いわく言いがたい風味が醸しだされているようです。もの静かな変人だったり、名言集のようなひとだったり、豊かな内観の達人だったり、エネルギッシュな革命家だったり。
コーヒーの味と香りという目に見えないものをとらえる作業の緻密さや、そのおいしさをひとに伝えることの難しさ、一杯のコーヒーの背後にひろがる世界の複雑さに接していることが、その人間のたたずまいにも風味をもたらすのかもしれません。雪におおわれた札幌・月寒(つきさむ)の町に、自家焙煎珈琲豆の販売店「いわい珈琲」を訪ねて、そんなことを考えました。
「コーヒーの世界は、自分が積みあげてきた知識や技術ががらがらと崩れてしまうことがあります。いくらやってもつかみきれない部分がある。それがコーヒーにかかわる仕事の苦しさであり、面白さなんだと思います」
そう話してくださったのはご主人の岩井さん。ものごとの完成形が予測できると、途端につまらなくなってやめてしまうたちで、「子どもの頃もプラモデルのできあがりが見えてくると、そこで興味を失っていました(笑)」とおっしゃいますから、もともとコーヒーの世界にふさわしい要素をお持ちだったのかもかもしれません。
いわい珈琲は最高のクオリティの豆を厳選したスペシャルティコーヒーを焙煎・販売するお店で、カフェではありませんが、お願いすれば何種類でも気軽に試飲することができます。
赤いやかんがのったアラジンのストーブの前に腰かけ、あれこれ試飲させていただいた中で何よりも強烈な体験となったのは、同じ豆を違う抽出方法で飲みくらべることでした。ペーパードリップと、お店のおすすめのフレンチプレス。
さしだされた2杯のコーヒーは、これが同じ豆かと目を疑うほど、それぞれに全く異なる風味が引き出されていました。おいしいですか、と問われればどちらもおいしいのですが、目指しているベクトルがまるで違うのです。ペーパードリップは豊かなコクと余韻の世界へ向かおうとし、フレンチプレスは甘みや旨みの世界を追究しようとします。
私もしろうとなりにささやかな知識と技術を何年か積み重ね、自宅で「夏はコーノ式ペーパードリップ、冬はネルドリップ」を楽しみ、それをベストだと考えてきたのですけれども、まさにその瞬間にがらがらと崩れてしまいました。
東京に戻って以来、毎日「朝はフレンチプレス」です。この方法は豆の持つ風味をストレートに抽出するので、長所も短所もそのままカップの中にくっきりと表れてしまい、本当に良い豆でないとフレンチプレスを使う意味がありません。
「好きなものをずっと好きでいるのは難しい」
穏やかな物腰でそうおっしゃる岩井さんの言葉が、同じ思いを抱く者として胸に響きました。好きなものを仕事にしてしまうと、ただシンプルに楽しむという最良の甘受のしかたはできなくなってしまうのですよね。
いわい珈琲で教えていただいたことは一度ではとうていお伝えしきれないので、後日AllAbout[カフェ]で詳しくご紹介させていただきます。

2008年03月07日(金曜日)
電車の中のきれいなひと
東京カフェマニア主宰 川口葉子
電車の中で、若くきれいな人々を見かけることが多くなりましたね。ときどき読書の目をやすめ、車内の美男美女を眺めて小さな眼福を味わっています。
近頃の10代、20代の女性たちの手足が長く、顔だちがこじんまりと整っていて目に快いのはもちろんですが、最近めざましいのが“美人男性”の増加。造形はもちろんのこと、着るものも髪型もセンス良くまとめて、東京の青年たちはいつのまにこんなにきれいになったのだろう、と驚いてしまいます。
きのうの午後、人のまばらな車両で出会った美貌の青年。ちょっと凝った仕立てのかろやかな細身のスプリングコートに、これまた細身のチャコールグレイのスーツを優美に着こなし、座席の上に薄いビジネスバッグを置いて自分は座らず、ドアのところにもたれている姿はちょっとほれぼれするようでした。
その彼がポケットから取り出したのは、小さなハンドクリーム。彼は両手の甲にクリームをのばし、繊細な指先までていねいにすりこみました。きめのこまかい、美しいお肌です。
それから青年は、なんとCDケースくらいの大きさの、女子高生たちが持ち歩くような折りたたみ式のミラーを取り出しました。鏡を熱心にのぞきこむ仕草はまさに女子高生そのもの!
次にマスカラを塗りはじめたらどうしよう…と心配になったけれど、青年は駅につくまでひたすら鏡を眺めていました。あれは自分でも眼福を味わっていたのでしょうか。まことにうらやましいことです。

2008年02月29日(金曜日)
おばあちゃんの距離
東京カフェマニア主宰 川口葉子
電車の中でよく感じることですが、若い女の子ほど、身体が他のひとと触れあうのをいやがりますよね。
私も若い時分には、見知らぬ誰かとほんのちょっと肘が当たるのも避けるほどでしたから、もしかしたら本箔Iなものでしょうか。
年齢を重ねた女性ほど、身体的距離が近いのを気にしないように思えます。電車の座席に腰かけていて、両腕がべったりと両隣のひとにくっついても意に介さないふう。
それは彼女の腕がたくさんの日々、たくさんの子供たちを抱きあげ、頬ずりし、そのよだれや涙やおしっこをきれいに始末してきたために接触に無頓着になったのかもしれません。
おばあちゃんの距離感で思い出すこと。もう署粕N前のことになりますが、私は電車が行ってしまったばかりの小さな駅のホームでベンチに座り、ピアスをつけようとしていました。
耳たぶに穴を開けて間もないころで、まだピアスの着脱に慣れていませんでしたから、ひどく時間がかかっていました。
ベンチの前にやってきて、私の隣に腰かけた小柄なおばあちゃん。興味しんしんで私の手つきを見つめているのがわかります。
ああ、そんなに凝視されたら、ますますピアスが入らなくなる……と、内心ひそかにあせっておりますと、なんとおばあちゃんはいきなりベンチの上に正座して、ぐるりと膝を回し、私に直角に向き直りました。
距離が近いです。しかも直角です。
「痛くないの?」
おばあちゃんは好奇心もあらわに尋ねてきました。いえ、大丈夫なんですよ、と答えましたが、私はもうふきだす寸前。
「大変だねえ! やっぱり痛いだろう!」
やっとのことで両耳にピアスが装着されるのをとっくり鑑賞してから、彼女は率直に感想を述べ、正面に向き直りました。
私もこんなおばあちゃんになるんだ、と心に決めました。見たいものは見たい、話しかけたかったら話しかける。それくらい自由になれてこそ、長生きの甲斐があるというものです。

2008年02月22日(金曜日)
日あたりの良い心で食べる:Sacra cafe.
東京カフェマニア主宰 川口葉子
よく晴れたお昼どき、清澄庭園に面したSacra Cafe.で、気持ちの良い一皿を堪狽オました。薬を使わず健康に育てられている鶏が産んだ新鮮な卵と、有機栽培のほうれん草を使ったフロランタン。
安心して口にできるそのおいしさは、カフェのオーナー夫妻の食べものに対するバランスの取れた考え方をそのまま反映するものでした。
このところ少し身体の調子を崩していた私。毎日食べるものに対しても、自分の身体に対しても、疑心暗鬼になっていました。
安価に流通している輸入食材が信用できないのはもちろんのこと、健康に良いと宣伝されている食品も、トランス脂肪酸などの危険性をひとつずつ調べていけば怪しさはきりがありません。
Sacra Cafe.のオーナーはマクロビオティックの料理教室に通い、ベジタリアンの食事を実践していた時期があったそうです。
「でもそのうちに、頭で食べていることに気がついたのです」
あれは身体に良くない、これも食べてはいけない……そんな「食べると危険」情報ばかりが先行すると、逆にそれがストレスになって、シンプルな「ごはんの喜び」が見えなくなってしまうのですね。
たぶん、親しい人と笑いながらおおらかに楽しむ食事は、眉間にしわを寄せながら摂取するストイックな食事よりも、ずっと心身を元気にしてくれるのでしょう。2週間ほど前に急に身体の不調を自覚した私は、健康のためには楽しみを制限しなければ、という命令形で頭がいっぱいになっていたのだと気がつきました。
Sacra cafe.では、千葉の信頼できる生産者のもとから届く有機・減農薬のお米や野菜を中心に、「△△式」「△△べジタリアン」といった形式にはこだわらず、身体にやさしい食事とスイーツが丹念に手作りされています。その、のびやかで明るいおいしさ!
こじんまりした空間には古いボーエ・モーエンセンの椅子と胡桃材のテーブルが並んでいます。椅子の背に刻印されているのは王冠のマークとAの文字。この椅子たちはかつて、デンマークの王立アカデミーで使われていたものなのだそうです。
窓からは陽射しがたっぷりさしこみ、明るい店内には包みこむような、でも決しておしつけがましくなることのない、ひとつのトーンが感じられました。その空間で私が久しぶりに感じていたのは、確かな信頼感であったかもしれません。
食事のあと、ゲランドの塩を使った「塩クリームのロールケーキ」をひとくち味見して幸福な気持ちになり、そのあと会う予定の友人たちにも味わってもらおうとテイクアウトしたのです。めいめいが夜、自宅に持ち帰って小さなわくわくを楽しめるようにと、わざわざ1個ずつ小さな箱に入れていただいて。
それなのに、こらえ性のない友人たちは、箱をのぞきこんでたまご色のしっとりした生地を目にするなり、なんとその場で食べてしまいました。食いしん坊たちめ!
▼Sacra Cafe.(サクラカフェ)
http://sacracafe.com/sacra/
※休日は遠方からもたくさんのお客さまが訪れ、平日のランチタイムには界隈で働く人々でいっぱいになるそう。ゆっくり時間を過ごしたい人はその時間帯をはずしましょう。