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2006年07月16日(日曜日)

チョコレート式人生と、シチュー式人生と…

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060715kawag.jpg「人生はチョコレートの箱」
そう言ったのはフォレスト・ガンプの母親でした。
「開けてみるまで中身はわからない」

チョコレート式に人生を送るひとは、新しい風の匂いを恐れないのでしょう。築き上げたひとつの世界が終わりを迎えても、何度でも顔を上げて、真新しい世界に飛び込んでいく勇気。それがチョコレート式人生の真髄です。

私の生き方は、ありあわせ野菜のシチューのように思えます。とりあえず目の前にあるおいしそうな野菜を次々に放り込んでいったら、いつのまにか現在のような味ができあがりました。最初に何気なく入れて今ではすっかり溶けてしまった具も、味のベースになっています。この先みつける具によっては、また味が微妙に変わることでしょう。シチュー式の人生に必要なのは、たっぷり具を煮込むことができる厚手の大きなお鍋だけ。

結城にあるカフェを訪れてオーナーにお話をうかがっているうちに、ミルクレープ式の人生があるのだと知りました。それは薄いクレープを1枚ずつていねいに焼いて、クリームをはさみながらひたすら積み重ねていく千枚のクレープ。

驚いたのは、カフェを構成するものごとのひとつひとつに、熟考が重ねられていること。オーナーになにを質問しても、通り一遍の答えではなくて、自分のやりかたを模索してきたひとならではの答えが返ってきます。決して立派な言葉が並んでいるわけではないのですが、何気ない言葉の背後に、あいまいな憧れだけではこのカフェは作れなかったのだという事実が横たわっているのを感じました。

きっとオーナーの中では、ミルクレープはまだ完成していないのでしょう。でも、その完成した姿が私には見えるように思いました。黄金色のミルクレープを完成させるのは、夢を描く力と、実現への強い意志。

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2006年07月09日(日曜日)

音から色へ、ランボー変換

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060707kawag.jpgAは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青。

詩人ランボーはよく知られた詩のなかで、母音を鮮やかな色に変換してみせました。

なぜAが黒くてEが白いのか、理由についてはさまざまな謎ときが試みられており、中には非常に説得力のある説も、むやみに色っぽい説もありますが、勝手ながら私は、ランボーの頭のなかに音を色彩にむすびつける回路があったのだと想像しています。音を聞くと自動的に色がイメージされる回路が。

たくさんのひとが、そんな回路を持っているのではないでしょうか。変換結果はそれぞれ違うかもしれないけれど。

ドは空色
レは黄緑色
ミはイチゴ色

私の回路は、音階をそのように変換します。なぜか数字の3を見てもイチゴ色が浮かんできます。ランボー回路をもっている人々の変換結果を集めたらおもしろそうですね。

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2006年06月30日(金曜日)

癒す心、治る力

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060630kawag.jpgアンドルー・ワイルの本『癒す心、治る力』に出会ったのはもう10年以上前のことでしょうか。薬に対する考え方を根本から変えてくれた、私にとってのバイブルです。

身体に本来そなわっている驚異的な「治る力」と、それをはたらかせる自分の心を信じよう。ワイル博士の本を何冊か読んで以来そう考えるようになり、風邪薬をはじめ大半の薬を手放しました。いま、うちにあるのは、年に2~3度お世話になる頭痛薬と便秘薬の2種類だけです。

しかし先日、この2種類さえも手放したくなるできごとが起こりました。

私は市販の薬をひきだしにしまっています。薬の紙箱から外に、銀色のカプセルに並んだ錠剤を出したまま。先日ひさしぶりに頭痛に見舞われたときのこと、忙しいので手っ取り早く解決しようと、ひきだしをあけて錠剤を飲んだのですが…。

ひきだしの奥に隠れていた薬の紙箱をなにげなくひっぱり出して、箱のおもてを見ると、そこには「自然に近いお通じをお求めのかたに」の文字が。そうです、この1年ばかり私が頭痛の薬だと思って飲んでいたのは、便秘の薬だったのでした!

それで頭痛は治ったのかって? いつも「薬を飲んだ」ということに安心して、頭が痛いことをあまり意識しなくなるので、効いたといえばちゃんと効いたのかもしれません…。

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2006年06月25日(日曜日)

CAFE UNIZON~空の名前・みどりのゆび

東京カフェマニア主宰 川口葉子

unizon_05.jpg沖縄本島・宜野湾市に、CAFE UNIZONをたずねました。
米軍基地のある町の風景は不思議です。建物の列がふっととぎれ、やけに空がひろい場所に出たと思うと、そこは普天間飛行場だったり、青々とした芝生のひろがる米軍住宅だったり。

カフェは米軍住宅ごしに北谷の町と海をのぞむ高台にありました。風のとおる気持ちのいい空間に、ゆったりしたソファと観葉植物。大きな窓からは空がよく見えています。

CAFE UNIZONをプロデュースした三枝克之さんは、『空の名前』の企画編集、『月のオデッセイ』『旅のカケラ-パリ・コラージュ』の執筆など、数々の名作を生みだしてきた作本家です。アートに対する鋭い眼力と編集のセンスはカフェにも存分に発揮され、店内には分野を問わず魅力的なもの、それまで沖縄では手に入らなかったものが集められていました。

新鮮な刺激は、音楽や美術、文学などに限らず、たとえばスタッフがエプロンがわりに身につけている布からも伝えられています。なにげなく巻かれたヨーガンレールの布は、眼をとめたお客さまからたびたび質問を受けるそう。1枚の布からひろがる、小さなインスピレーション。

「カフェとアートは似ていると思うのです」
そう話してくれたのは店長の山之内裕子さん。
「どちらも生きていくうえで絶対に必要なものではないのだけれど、必要なもの。なくてもいいのだけれど、なくてはならないもの」

那覇市内の有名店シナモンカフェで4年のあいだ活躍してきた山之内さん。しっかりとしたクオリティのあるCAFE UNIZONのお料理は、彼女が中心となって考案しています。

「調子の悪いときに、彼女が<これを食べてみてください>と作ってくれたものを食べると、なぜか治ってしまうんですよ」と三枝さんは微笑しました。
「これといって特別な料理ではなく、ごくふつうの材料を使っているらしいのですが」

unizon_06.jpgいるんですよね、そういうお料理を作る人が。草花を元気に育てることのできる「みどりのゆび」の持ち主がいるように、お料理で人を元気にすることができる人も、きっと魔法の「人間版・みどりのゆび」を持っているのでしょう。

ランチ文化全盛の沖縄にあって、CAFE UNIZONの開店は午後1時から。正午からのオープンを望む声もあるそうですが、山之内さんは首を縦にふりません。
「ここでお出ししているのは玄米のプレートです。玄米はよく噛んでゆっくりと食べるものですから、12時から1時間以内にあわただしく食事をすませて会社に戻らなければならない、という条件には向かないと思うのです」

なるほど、そういう考え方も納得できます。その横で「だれよりも、ぼくが正午から開けてほしいんだけど…」と、プロデューサーが小さな声でつぶやいていました。

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2006年06月16日(金曜日)

夜の虹、ムーンボウ

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060615kawag1.jpgおいしいコナコーヒーを飲ませてくれるカフェを取材して、ハワイ生まれのハワイ育ち、現在もハワイと東京を行き来する生活をしている男性のお話をうかがいました。「リアルハワイ」をテーマにしたカフェのハワイアンフードはこの人がアドバイザー役を担当し、コナコーヒーをハワイ島で買いつけるのはオーナーがおこなっています。

話の途中で、いかにもハワイの日系人らしい風貌をしたその人に、あなたはなぜハワイが好きなのですかと逆に質問されました。

「初めてオアフ島を観光したときは何の感動もなかったのですが、ハワイ島の田舎町をレンタカーで回る旅をして、大地のエネルギーの神聖さや豊かさを感じたのです。大きな虹を見て、不思議に心を動かされました」

彼はうなずいて、ハワイで暮らしていた時代には虹はいつも見られるからそれほど気にとめていなかったけれど、東京に拠点を移して初めて、虹がいかに貴重なものかに気がついたと言いました。そして、こんなことを口にしたのです。

「ムーンボウを見たことがありますか?」

満月の頃、夜空に月明かりがかける大きな虹。ムーンボウともナイトレインボウとも呼ばれるその虹のことを、私は「祝福の虹」というサブタイトルのつけられた高砂淳二氏の写真集「night rainbow」を見て知りました。古代ハワイの時代から、見た者にとって最高の祝福をもたらすと言われてきた夜の虹。

060615kawag2.jpg古代ハワイの世界では、自然現象のひとつひとつに意味があったそうです。雨も虹も雷もみな天からのサインで、人間になにかを知らせているのだそう。虹はとびきりの祝福と言われているので、私は虹を見るたびに、精霊たちが「Good job!」と空からウィンクしてくれているイメージを抱いていました。

いまだ眼にしたことのない夜の虹。いつか出会う機会があるでしょうか? 内緒ですよ、と前置きして、彼はオアフ島でもムーンボウを見ることのできるポイントを教えてくれました。

カフェのオーナーからは、ある地球物理学者が放浪ヒッピー生活の果てにハワイ島コナにたどりつき、たったひとりで素晴らしいコーヒーを栽培している話などを聞かせていただきました。こちらもとびきり面白いお話だったので、今つくっているカフェの本におさめることにしました。

8月にまたハワイ島に行くので、私もその地球物理学者の農園を訪れてみたいと申し上げると、いつでもご本人を紹介しますが、四駆のレンタカーでなければとても行けないようなとんでもない場所にあるので覚悟が必要ですよ、と言われてしまいました。オーナーが初めて、道を間違えてその地球物理学者の農園に迷い込んだときには、あまりの悪路に、どこかにぶつけたわけでもないのに車のフロントガラスがひび割れてしまったそうです。

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2006年06月10日(土曜日)

ひとめで心を惹きつける

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060609kawag1.jpg本の取材のために、3日間、ひとりでレンタカーに乗って沖縄本島を回りました。

海からのモンスーンが吹きこみ、雨が降ったりやんだりする沖縄。「雨の日はカフェ日和」だと思っていますから、こんなお天気も悪くありません。雨音のこもるカフェの風情をゆっくり楽しむことができたのですが、何よりも心配だったのはレンタカーの運転でした。

「象を轢いても気がつかない」と家族に言われるほど、ぼんやり者の私。1年のうち旅先での数日間しか運転しないこともあって、いつまでたっても初心者ドライバーの域を脱することができません。夜、コザの町から那覇のホテルまで、レンタカーのフロントガラスに叩きつける激しい雨に視界を奪われながら運転するときの心細さといったらありませんでした。広すぎる真っ暗な世界のなかで、カーナビの声とFM沖縄だけが友だち。

3日間のあいだに、素晴らしいカフェに出会いました。扉を見ただけで、ひとめぼれしてしまったのです。

そのカフェの存在については、沖縄在住の信頼のおける友人から名前を教えてもらっていました。でも、詳しい場所については、カーナビがいつものように「目的地周辺です。案内を終了します」と宣言してあっさり運転手を見捨ててしまったため、あちこち探さねばならないようでした。

予定謔闡≠「時間に町に到着して、車で通りをざっと流しているときに、ふと視界になんとも心を惹きつけるたたずまいの建物が飛びこんできました。ひさしをおおうブーゲンビレアの花。不思議な質感の扉。店名が読み取れず、なんのお店であるかも判別できなかったので、車を近くに停めてお店まで歩いてみました。

060609kawag2.jpg「closed」の看板が出ていました。ウィンドウにはいい感じの椅子がディスプレイされています。家具屋さん? 雑貨店? でも、店内には灯りがつき、人の気配がします。今回はご縁がなくてもショップカードだけでももらっていこう、扉には鍵がかかっているかしら? そう思ってドアノブに手をかけようとして、はっとしました。

ドアノブが、古い水道の蛇口なのです。そのセンスに強く共感しながらドアノブを引くと、扉はすんなりと開きました。店内の正面に立てかけてあった小さな黒板から、私はこの場所こそが今から探すはずのカフェであったことを知りました。

カフェのオープンは夕方5時から。開店10分前だったのでした。店内も、扉が放っている磁力に負けずおとらず魅力的な空気。若い男性オーナーは東京出身で、ダイビングがしたくて沖縄にやってきて、外人住宅を友人と3人でシェアして住んでいるとのこと。
「ずっと沖縄で生活するつもりはなかったのですが、東京に帰る理由がとくにないのです」

私の質問に、ひとつひとつ考えながら丁寧に答えてくれる姿も、ああなるほど、こういうカフェを作っている人だ、と思わせるものでした。

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2006年06月04日(日曜日)

好き/きらいの不思議

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060603kawag.jpg「お茶の時間は一日の句読点である」という言葉をよく耳にします。私の句読点はコーヒー色ですが、人によってはそこにミルクの泡の色が混じったり、紅茶色だったり、緑色だったりしますね。なぜこのようにさまざまな味の好みが生まれるのか、いつも不思議でなりません。

ある食べものが嫌いだという人にその理由を聞いてみると、たいていは、わけのわからない答えがかえってくるものです。
凝ったフレンチの前菜をすべて苦手とする叔母は、「虫かごと鳥かごを丸ごと食べているようだ」と言いはります。鈴虫と、えさのキュウリと、竹細工の虫かごと、小鳥と、つぶつぶの鳥のえさと、鳥のふんを、全部丸ごと食べているような味だというのです! もしかしたら、「キャビア=鳥のえさ+鳥のふん」という解釈なのかもしれません。

また、友人の父親はきくらげを忌み嫌っていたそうですが、その理由は、癌に似ているからだとか。彼らの場合は、かなり独創的な連想が、苦手意識を生んでいるような気がします。

060503kawag2.jpgどんなタイプの恋人が好きか、という嗜好は、食べものの嗜好とわかちがたく結びついている、と主張する友人がいます。

「たとえば小さな子どもの頃、アイスクリームが大好きだったとするね。たまたま、その大好きなアイスクリームを食べているときに、テレビに髪が長くて眉の薄い女の人が映っていて、にっこりほほえみかけたりすると、その男子は成長してから、無意識のうちに髪が長くて眉の薄い女性を好ましく思うようになるんじゃないだろうか?」

人々の嗜好のばらばら加減を見ていると、あまりにも不思議で説明がつかず、この友人の意見も無視できなくなってきます。

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2006年05月28日(日曜日)

新月の珈琲とポルボロンの呪文

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060527kawag.jpg札幌の美しいカフェ森彦のオーナーである市川草介さんが、東京青山のアパートの一室で「一日喫茶室」を開きました。市川さんがコクと香り豊かに焙煎した深煎りのコロンビアと浅煎りのモカが、限定15名のお客さまの目の前でネルドリップされ、白い器に入れてふるまわれます。

コーヒーのお供に札幌から持ち込まれたのが、森彦のスタッフがつくったお菓子、ポルボロンでした。ポルボロンはスペインの修道院で生まれた伝統菓子。クッキーのような見かけから、かりっとした食感を想像していると、舌の上で淡雪のように溶け去ることに驚かされます。ポルボ=粉、ロン=ほろりと崩れる。日本語の名前にするなら「ほろほろ粉」というところでしょうか。

「食べるときに『ポルボロン、ポルボロン、ポルボロン』と3回唱えると、願いごとがかなうと言われているそうです」

市川さんがそう説明してくれました。ちょうどこの日は新月。新月のときに願いごとをするとかないやすいという言い伝えもありますから、ポルボロンの呪文はふだんの2倍効きそうでした! ただちに口をついて出た切なる願いは、来月、沖縄でレンタカーを運転するときに、車体をどこにもこすりませんように。民家の塀をポルボロンのように崩してしまったりしませんように。そして、今書いている本が無事に完成しますように。

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2006年05月19日(金曜日)

魂の午前三時に目を覚ましてしまったら

東京カフェマニア主宰 川口葉子

村上春樹がスコット・フィツジェラルドの文章をひいて、「魂の午前三時には決して目をさましていてはいけない」と書いています。誰でも魂の午前三時には、死にたくなるほど孤独で絶望的になるからと。

ごくたまにですが、夫の仕事柄、生きるのがつらすぎると感じている高校生たちが家で話題になることがあります。彼らは魂の午前三時にひとりで目を覚ましてしまう。そして死ぬためにではなく、なんとかして生き続けるために、自分の身体を傷つける。苦しんでいるのだと誰かに気づいてほしくて。

060519kawag.jpg夜の闇から彼らを抜け出させようと、夜回りをしたり子どもたちからの電話を受けたりしている人の精力的な活動がHNK教育の番組で紹介されていました。何度もメディアに取り上げられたため、生きにくい子どもたちのあいだではよく名前を知られている人物です。その彼が、繰り返し呼びかけていました。

苦しんでいることを家族に隠すな。
身近な人にやさしくしろ。
家族にやさしくできなければ、まず、友だちにやさしくしろ。

これは自分を傷つけることをやめられない子どもへのメッセージですが、つらい時期を過ごしているすべての人々に有効なエッセンスが含まれているように感じます。

苦しいときは、自分のつらさしか見えなくなっているもの。そんな時にあえて、身近な人に精一杯のやさしさを向けることで、相手から笑顔が返ってくることがあります。もしかしたら、ありがとうの言葉も。その笑顔や言葉の中には、世界からの「あなたはここで生きていっていいんですよ」というメッセージが含まれているのだと思います。

世界はほんとうに、自分が投げかけたものをそのまま返してくるのですよね。小さな憎悪を投げかければ憎悪が、ぎこちないやさしさを投げかければやさしさが、本人に戻ってくるのだということを、私はずいぶん大人になってしまってから初めて実感しました。昔の私に呼びかけられるなら、ぜひ教えてあげたいものです。なにかいいことが起きないかなあ、幸運が降ってこないかなあ…とため息をついているなら、人にやさしくしてごらんなさい。

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2006年05月12日(金曜日)

ベートーベンの着陸

東京カフェマニア主宰 川口葉子

060512.jpg中学生のときに、ピアノのレッスンでベートーベンのャiタを弾いたことがあります。ワルトシュタインだったか熱情だったかすっかり忘れてしまいましたが、終楽章の終わりの16章節分が問題でした。いかにもベートーベン的な和音が続き、フォルティシモでじゃんじゃんじゃーん!じゃんじゃんじゃーん!じゃんじゃんじゃーん!なのです。なんて大げさな。じゃんじゃん!でおしまいにすればいいのに、と弾きながら思いました。

先生は私のあさはかな不満を見透かしておられました。そして、この楽章はジャンボジェットが轟音で空を飛んでいるのと同じくらいすさまじいエネルギーを持っているから、いきなり着陸することはできないのだと説明してくださったのです。

「空を飛んできたジャンボジェットは、ぴたっとは止まれないでしょう? 着地してもまだ、すごい勢いで走らなければ止まれません。ベートーベンの着陸には、長い滑走路が必要なんです」

いま、そのャiタと同じ状態が頭の中で起きています。夏に出版するカフェの本のために毎日原稿を書き、台割を考え、お店に電話をして取材のお願いをしたりしていると、長いあいだやすらかな停滞期にあった頭が、確実に活動期に移行したのを感じます。停滞期間と活動期間のバランスは人それぞれだと思うのですが、私のなまけた頭は停滞期間のほうがはるかに長いようです。

慣れない活動期に入ったら、妙な問題が発生したのでした。昼間のあいだ思考がいっしょうけんめいに飛行しているため、すんなりと着陸できず、夜ベッドに入ってからも頭の回転が止まりません。といっても、回転の勢いはベートーベンのャiタ級のジャンボジェットではなく、せいぜい羽田空港発伊豆大島行きのプロペラ機なのだけれど。

これはどうしても頭の滑走路が必要だと思い、リラックス系の音楽を聴いたり、ラベンダーの精油を入れたお風呂につかったりしたのですが、ぜんぜん眠れません。体のほうは眠たがってふらふらしているのに、頭が眠ろうとしないのです。

しかたなく、十年ぶりに近所のフィットネスクラブに通うことにしました。知らないうちに進化を遂げていた体力・体重測定機は、次々にとんでもない数値をはじきだしてくれました。衝撃のあまり脳が気絶状態になり、おかげでその晩はすこやかに眠ることができたのでした……。

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